「娯楽の江戸 江戸の食文化」 三田村 鳶魚
「大体、この食物を買って食うということは、旅からきている。 旅行によって起こったことなので、本来はめいめいの家で自ら 供給しているものが、旅に出るとどうしても他の供給を受けるより 仕方が無い。そこで、路銀(旅の費用)、旅人用というものは、 必ず貨幣を持って出なければならない。」
旅によって紙幣経済が一般化する。旅の食物として料理屋があらわれる。外で飲食は、旅と貨幣経済を前提としている。
「寛政度(1789〜1800年)には、煮売酒屋がなかなか商いが盛んになる。」この煮売酒屋で居酒されるようになったのが、居酒屋の原型とみられている。
煮売酒屋には三種類 ・七輪と鍋、食器を天秤棒で担って行商する者 ・屋台を出して辻売りする者 ・店を構えて商う者
売られていた物 煮豆、煮しめ、おでん、田楽豆腐、菜飯など 客は、縁台に座り、肴一皿で酒を飲んでいる。盃はチョク(猪口)、酒器は、チロリ。チロリは、銅製、陶製で同筒型の片口である。底部を熱湯に浸すか炭火にあてるかすると、酒の燗ができる。煮売酒屋と前後して、縄のれんも登場する。空樽を並べてその上に板を渡し、客はそこに腰かけて飲食したそうだ。
江戸の庶民の飲酒習俗は、こうした簡便な居酒屋を舞台に展開する。そこでは、長座が嫌われることになる。「祭りの酒は底つきるまで。ふだんの酒は正二合」という俗語があるが、そこでの飲食は、あくまでも景気づけの一杯にすぎなかったのである。(粋だよな・・・)
「兜をきめる」 江戸っ子たちのそうした飲み方は、明治以降も伝わる。むろん下町の夜の風景である。東京には「兜をきめる」という言葉が伝わっていた。一合桝の縁に塩をのせ、それを舐めながら酒を飲むことである。現在では通ぶった飲み方とされるし、桝酒もパーティーの乾杯に用いられるようにもなっているが、かつてはごく大衆的な飲み方であった。実際にそれだけですまされることは少なく、もう一合重ねたり、肴をつまんだりしただろろうが、基本的にはそれで済ます。この手際のよさを「兜をきめる」といっていたそうだ。 (桝酒のあの杉の香りもまたいい。)
参考ページ http://www8.plala.or.jp/YOCKEY/sake5.htm
取材・文/小田切隆(ジャーナリスト)
石井誠ニは、大成長をとげて”伝説”とさえなった、「つぼ八」の創業者だ。 1973年、30歳のとき、8坪の店舗を北海道で立ち上げて以来、当初の計画を大きく上回り、5年間で規模・売上において名実ともに北海道No.1に輝き、さらには日本国中を制覇。 「逃げて生きるより、戦って生きろ!自分自身をライバルとせよ!」 石井は,自ら語ってきた言葉通りに、仲間を集め、再び戦いを開始した。あえてゼロからの出発を決意した石井は、1988年7月、株式会社八百八町の前身である、株式会社エス・アンド・ワイ石井を設立。 そして翌年1989年5月に八百八町1号店をオープンして以降、毎年新しい店をオープンしていったのだ。そして現在(2000年5月)、9店舗(八百八町7店・かたりべ2店)と食材専門会社「キッチン工房」を抱えるまでに、急成長したのである。
その理由は、いったい何なのか・・・。 「ぼくはね、いつも『買い場に降りて、売り場をみなさい』といっているんです。『買い場』というのはモノを買うお客さまの立場、『売り場』というのは、ぼくら経営する側の立場のことなんですがね、お客さまの立場や目から見ることができなかったら、絶対、店は繁盛しません。どういうサービスを求めているか、それを買い場に降りて見ろ、というんですよ」 ある店長は、新たに創業して自ら店舗に立つ石井から、直接、その精神を徹底して学んだという。その店長は語る。 「ぼくは、徹底して買い場に立つということを、社長から直接、訓練してもらいました。ともかくやかましい。でも怒っていうんじゃないんですよ。実際にどうしなければいかんかを、現場で諭してくれるんです。だから身にしみて納得できる。『気づいたことは今すぐやれ』、『料理は女性の口に合うように切れ』とかね」
石井は、店長は客に奉仕するだけではない、と語る。その店で働く従業員の模範となって、彼らのためにも奉仕する人間たれ、そしてまた、徹底して店がある町のためにも奉仕せよ、と語るのだ。地域で信頼される人間になるということが、即ち店の発展にも通じていくということなのだ。 新たに店を立ち上げるとき、店長になる者は、その町に住み着き、まずチリ取りとホウキを持って町の清掃から始めるという。そして顔を知ってもらい、馴染みになり、五感で町の空気を知る。すべてはそこからはじまるという。 「自分が何かを欲しいと思ったら、まず自分が持っているものを、すべて相手にぶつけることから始まる。若いということは、まだ何も持たないということでしょう。ぼくは、だったら若さをぶつけろ、というんです。何もなくても、掃除くらいならできるじゃないですか。ぶつけなければ、ただの通りすがりの人間でしかない。町の人々に喜んでもらう、ウソをつかない、そして信頼を得る。 ぼくはね、これを行商のおばさんから学んだ。リヤカーで荷物を運びながらぼくの町に来る。それでモノを正直な値段で売る。しかもコワレモノが出ると、割引で売ったりせずに、みんなタダであげちゃうんだな。それで売ったお金で、今度はその町のものを買い、持って帰る。みんな喜ぶ。町の人に喜ばれて、それでもおばちゃんは儲かっているんです。それを別の町に持っていくと倍になって売れるからね。 ”得るは、棄つるにあり”これだ!と、ぼくは思ったんです。 ぼくはこれを”ありがとうの文化”っていうんですね。ありがとうの文化を、自分にも周囲にも定着させよ、とね」
八百八町の店長は、仕入からメニューの決定まで、すべて任されている。 だからこそ「自分の店」という誇りがある。 「独立心のない人間はいらない」とまで石井はいい切る。雇われ根性では、責任を誰かに押しつけてしまう。だが自分で責任を持ち、働いた分、努力した分だけ必ず自分に返ってくるという事実があれば、懸命に働くし知恵も出る。だからこそ八百八町すべての店が繁盛しているのだ。 「うちに来る若い人たちにいつもいうんです。”自分の人生をどうしたらいいか”ではないんだよ、”自分の人生をどうしたいか”だよってね。そこから出発しなさい、そうすれば自分の計画が見えてくる。周りの環境がどうのじゃない、計画が見えてくれば、 どうすればそれが可能になるかを考えて行動すればいい。それに、もうひとつ必要なことは、自分という存在を相手にしっかり伝えよ、ということですね。掃除をする、すると『お兄さん、何してるの』と声をかけてくれる。『実は八百八町の店長やってるんです』とチラシを渡す。その繰り返しだけで十分、宣伝になるし、存在をアピールできる。あとは笑顔だね」
八百八町の店には、ひとつとして同じ店はない。ハデな看板もない。その町に溶け込み、そして繁盛している。変化する時代にどう対応していくか、変化をどうキャッチするかが問われるのだ。 店長は、お客さまの大半の顔と名前、それにどこに住んでいるのかまで知っているという。なるほど、実に地域に信頼されてなければ、到底かなわないことでもある。八百八町の店舗設計は、1軒ごとにコンセプトが違う。それは、ひとつの町にはその町独自の風土があり、文化があるからだ。その風土や町の文化に合った店舗でなければ、その町にふさわしい店にはならない、という発想からだ。
すべての根底に”人”がある。人間の人間に対する奉仕の精神がある。それが石井の哲学だ。しかもその哲学は、実践によってはじめて”生きた哲学”となるのだ。 石井誠二の展開する事業は、これから加速的に伸びていくだろう。しかもそこには、いつも新しく新鮮な顔が待っているのだ。